豊かな創造力で
未知の世界を追い求め
日本人初の
ノーベル賞に輝いた
物理学者
1933年から1939年まで大阪帝国大学理学部講師、助教授として中間子論を提唱、その功績でノーベル物理学賞を受賞した。
略年表
地質学者、小川琢治の三男として東京に生まれる
父が京都帝国大学教授となり、京都に転居
第三高等学校理科甲類入学
京都帝国大学理学部物理学科入学
京都帝国大学理学部物理学科卒業
同大学理学部副手として理論物理学を研究
京都帝国大学理学部講師となる
湯川スミと結婚 湯川家に入る
(旧大阪帝国大学)時代
大阪帝国大学理学部講師を兼ねる
大阪帝国大学の自由闊達な雰囲気の中、素粒子物理学の研究に従事し、中間子論の発展に勤しむ
大阪帝国大学理学部専任講師となる
中間子の存在を予想し、日本数学物理学会で発表。「素粒子の相互作用についてI」を投稿 。この研究成果が、ノーベル賞受賞につながる
大阪帝国大学助教授となり、理学部に勤務する
大阪帝国大学より理学博士の学位(第584号)を授与される
ソルヴェイ会議(9月)に招待される
京都帝国大学教授となり、理学部に勤務する
帝国学士院恩賜賞を受ける
文化勲章を受ける
欧文学術誌「理論物理学の進歩」を創刊
帝国学士院会員となる
プリンストン高等研究所に招かれ渡米
大阪大学名誉教授に就任
コロンビア大学客員教授となり、ニューヨークに移る
核力に関する中間子理論によりノーベル物理学賞を受ける
湯川秀樹博士がコロンビア大学の教授室で愛用した黒板は、 2014年、大阪大学理学研究科に移設され、学生、教員の活発な議論の場となっています
大阪大学名誉教授となる
京都大学基礎物理学研究所が新設され所長となる
大阪大学湯川記念室発足
ラッセル・アインシュタイン宣言に基づいて、カナダで開かれた第 1 回パグウォッシュ会議に出席
朝永振一郎氏、坂田昌一氏らと第 1 回科学者京都会議を開く
京都大学を定年退官、同大学名誉教授となる
第 4 回科学者京都会議を主催する
京都市下鴨の自宅で永眠