豊かな創造力で
未知の世界を追い求め
日本人初の

ノーベル賞に輝いた

物理学者

1933年から1939年まで大阪帝国大学理学部講師、助教授として中間子論を提唱、その功績でノーベル物理学賞を受賞した。

略年表

1907-1932
1907年(明治40年) 1月23日

地質学者、小川琢治の三男として東京に生まれる

1908年(明治41年) 1歳

父が京都帝国大学教授となり、京都に転居

1923年(大正12年) 16歳

第三高等学校理科甲類入学

1926年(大正15年) 19歳

京都帝国大学理学部物理学科入学

1929年(昭和4年) 22歳

京都帝国大学理学部物理学科卒業
同大学理学部副手として理論物理学を研究

1932年(昭和7年) 25歳

京都帝国大学理学部講師となる
湯川スミと結婚 湯川家に入る

1933-1939
大阪大学

(旧大阪帝国大学)時代
1933年(昭和8年) 26歳

大阪帝国大学理学部講師を兼ねる

1933年(昭和8年)〜1939年(昭和14年) 26〜32歳

大阪帝国大学の自由闊達な雰囲気の中、素粒子物理学の研究に従事し、中間子論の発展に勤しむ

湯川研究室理論コロキウム記録(1938)
1934年(昭和9年) 27歳

大阪帝国大学理学部専任講師となる

中間子の存在を予想し、日本数学物理学会で発表。「素粒子の相互作用についてI」を投稿 。この研究成果が、ノーベル賞受賞につながる

「素粒子の相互作用についてI」(中間子論第 1 論文)
1936年(昭和11年) 29歳

大阪帝国大学助教授となり、理学部に勤務する

大阪大学理学部(中之島)の屋上にて(1934 – 37年ころ)。 後列左端が湯川秀樹、前列中央は菊池正士。
1938年(昭和13年) 31歳

大阪帝国大学より理学博士の学位(第584号)を授与される

主論文+参考論文9編
1939年(昭和14年) 32歳

ソルヴェイ会議(9月)に招待される

1939-1949
 
1939年(昭和14年) 5月26日

京都帝国大学教授となり、理学部に勤務する

1940年(昭和15年) 33歳

帝国学士院恩賜賞を受ける

1943年(昭和18年) 36歳

文化勲章を受ける

1946年(昭和21年) 39歳

欧文学術誌「理論物理学の進歩」を創刊
帝国学士院会員となる

1948年(昭和23年) 41歳

プリンストン高等研究所に招かれ渡米

1949-1950
ノーベル物理学賞受賞、
大阪大学名誉教授に就任
1949年(昭和24年) 42歳

コロンビア大学客員教授となり、ニューヨークに移る

1949年(昭和24年) 42歳

核力に関する中間子理論によりノーベル物理学賞を受ける

湯川秀樹博士がコロンビア大学の教授室で愛用した黒板は、 2014年、大阪大学理学研究科に移設され、学生、教員の活発な議論の場となっています

1950年(昭和25年) 43歳

大阪大学名誉教授となる

1953-1981
 
1953年(昭和28年) 46歳

京都大学基礎物理学研究所が新設され所長となる

1953年(昭和28年)

大阪大学湯川記念室発足

1957年(昭和32年) 50歳

ラッセル・アインシュタイン宣言に基づいて、カナダで開かれた第 1 回パグウォッシュ会議に出席

1962年(昭和37年) 55歳

朝永振一郎氏、坂田昌一氏らと第 1 回科学者京都会議を開く

1970年(昭和45年) 63歳

京都大学を定年退官、同大学名誉教授となる

1981年(昭和56年) 74歳

第 4 回科学者京都会議を主催する

1981年(昭和56年) 9月8日

京都市下鴨の自宅で永眠