「湯川理論」誕生の地
大阪大学
湯川秀樹博士は1933年から1939年まで、
大阪大学(旧大阪帝国大学)理学部の講師、助教授として物理学の研究に従事した。
湯川の中間子論はこのとき生まれ、
論文「On the Interaction of Elementary Particles. I」(1934年11月)として実を結ぶ。
1949年、湯川はこの研究により日本人として最初のノーベル賞を受賞した。
敗戦後のすさんだ世相の中でこのニュースは国民的な感激を引き起こした。
自由で先進的な研究環境
大阪大学は長岡半太郎を初代総長として1931年大阪中之島に設立され、理学部物理学科主任の八木秀次は、1933年当時26歳の湯川秀樹を講師として迎え入れた。湯川は原子物理学実験の巨匠、菊池正士のグループで自由闊達に研究に勤しんだ。
若き研究者が集まり
切磋琢磨しあう
活気にあふれた日々
湯川は自由に研究に専念することができた。湯川を慕い、坂田昌一、伏見康治、武谷三男など多くの若い研究者が集まった。後に湯川は「ここにいると、何か仕事をせずにおられないような気持ちになる」と振り返っている。研究室での連日の勉強会、物理学科や学会での講演、論文執筆などこの時期の研究活動は凄まじい。
中間子論のひらめき
同僚との議論、野球の練習が織りなす中、アイディアがひらめく。湯川は日記に、昭和9年(1934年)10月10日「γ’ ray の考へを坂田君に話す。」、10月11日「γ’ ray の話、菊池さん等と話合ふ。」と刻んだ。「γ’ ray」とは今で言うπ中間子のことである。
素粒子物理学の幕開け
湯川は核力を説明するために新しい粒子(中間子)の存在を予言し、現代の素粒子物理学の幕がここ大阪大学で切って落とされた。
湯川黒板が海をわたり大阪大学へ
2014年5月、湯川秀樹博士がコロンビア大学の教授室で愛用した黒板が、 大阪大学理学研究科に移設されました。 湯川秀樹と同じように、学生や若い研究者たちがこの黒板により議論を深め、新たな知見が導かれ、新しい学問を築いていくことを期待しています。
受け継がれる湯川の精神
湯川秀樹の創造性あふれる研究や、真理を追い求める強い熱意と意志は、現在、そして未来の大阪大学に受け継がれていきます。