PHOTO GALLERY
Section A 大阪大学が所有している写真です。
使用の際は、「写真提供:大阪大学湯川記念室」と明記してください。
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湯川秀樹
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大阪帝国大学に提出された博士学位論文。主論文と参考論文9編、計10編からなる。昭和13年(1938年)4月5日、大阪帝国大学第584号の学位が湯川秀樹に授与された。
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平成22年(2010年)高槻市の松本英和様から大阪大学に寄贈していただいた湯川夫妻の写真。撮影は池坊専属写真師の須原都智路氏。
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大阪大学大学院理学研究科長室に掲げられている額
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湯川記念室設立の経緯
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平成26年(2014年)5月13日、大阪大学理学研究科で「湯川秀樹先生愛用の黒板披露式典」が執り行われた。ご子息の湯川春洋氏、南部陽一郎大阪大学特別栄誉教授、平野俊夫大阪大学総長らのもとで除幕された。
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昭和24年〜昭和28年(1949年〜1953年)、湯川秀樹がニューヨークのコロンビア大学客員教授時代に教授室で愛用していた黒板。湯川の帰国後、T.D.Lee教授(1957年ノーベル物理学賞受賞)が黒板を大切に使い続けていた。コロンビア大学と理化学研究所のご厚意で、平成26年(2014年)5月、大阪大学大学院理学研究科物理系総合研究棟(H棟)7階コミュニケーションスペースに移設された。黒板は2枚の石板(slate)により構成される。
Section B 京都大学基礎物理学研究所が湯川家から寄贈された写真です。
写真を使用したい場合は
京都大学基礎物理学研究所湯川記念館史料室に連絡し、許可を得てください。
このセクションの写真は京都大学基礎物理学研究所湯川記念館史料室のホームページでもご覧になれます。
B1(pct200_004)
第三高等学校時代、左端に写るのが湯川秀樹
B2(pct200_017)
大阪帝国大学理学部(中之島)の屋上にて1934年から37 年(昭和9-12 年)ころ。 前列中央・菊池正士、左・山口太三郎、右・岡小天、後列左より湯川秀樹、渡瀬譲、熊谷(青木)寛夫、伏見康治、坂田昌一。
B3(pct200_014)
昭和14年(1939年)、32歳。初めての海外出張となるSolvay(ソルベイ)会議出発直前。昭和14 年10月ブリュッセルで開かれる予定のSolvay会議に招待され、6月末靖国丸で神戸から初めての外国旅行に出発した。8月上旬にナポリに上陸したが、第二次世界大戦勃発により会議は無期延期となり、8月26日にハンブルクに待機していた靖国丸で引き揚げることになった。当時ライプチッヒ大学に留学中の朝永振一郎も同じ船で共に引き揚げた。途中ニューヨークに寄港したのを機に、ひとり下船してアメリカに滞在、約1ヶ月間アインシュタインのいるプリンストンなどを列車で回り、各地で多くの物理学者と交流を深める。10月13日サンフランシスコから出航した鎌倉丸に乗り、28日横浜に戻った。招待状が届いた昭和14年4月初めは大阪帝国大学在任中であったが、前年急逝した恩師玉城嘉十郎教授の後任として5月26日京都帝国大学へ転任した。
B4(pct200_020)
昭和17年(1942年)5月、35歳。東大寺三月堂前、ピクニックで奈良を訪れた、前列右から湯川秀樹、小林稔、坂田昌一、田村松平、谷川安孝。谷川の発案で二中間子論の考えが討議された。中間子論ハイキングとも呼ばれる。
B5(pct200_021)
坂田昌一とともに。
B6(pct200_024)
昭和18年(1943年)4月、36 歳。文化勲章受章。昭和15 年には、33 歳で学士院恩賜賞を受賞している。
B7(pct200_027)
昭和19年(1944年)6月7日、大阪高等学校に於ける講演。写真は理甲二年一組一同より寄贈された。
B8(pct200_028)
湯川秀樹
B9(pct200_029)
昭和23年(1948年)、40歳。元旦の自画像。
B10(pct200_031)
昭和23年(1948年)9 月、プリンストン高等学術研究所に招かれ、渡米する。バークレーにて、左からフェ ルミ、セグレ、湯川秀樹、ウィック。かねてからアメリカに着いたらまずカリフォルニア大学放射線研究所を訪問したいと考えていた湯川は、大学のあるバークレーで、夏期講義のために滞在していたシカゴ大学のフェルミ教授らの物理学者と出会う。
B11(pct200_032)
昭和23年(1948年)9月、後列左よりローレンス、サーバー(Serber)と湯川夫妻、バークレーにて。
B12(pct200_035)
プリンストンにて、パイス(Pais)と。
B13(pct200_034)
プリンストンにて、アインシュタインを一家で訪問。スミ夫人写す。(1949年ごろ)
B14(pct200_036)
プリンストンにて、ラウエ(Laue)と。
B15(pct200_037)
プリンストンにて。
B16(pct200_038)
昭和24年(1949年)、42歳。ノーベ ル賞の知らせを受けてラビ(Rabi)と。コロンビア大学パブリック・インフォメーション・センターが撮影。
B17(pct200_040)
コロンビア大学にて。
B18(pct200_041)
コロンビア大学湯川教授室にて、ラビ(Rabi)と。ラビは、コロンビア大学における最初のノーベル物理学賞受賞者であり、湯川は2番目の受賞者となる。背後の黒板は2014年大阪大学理学研究科H棟に移設された。
B19(pct200_048)
ノーベル賞受賞の知らせを受けた後、プリンストンにて。右から朝永振一郎、湯川秀樹、オッペンハイマー。
B20(pct200_045)
ノーベル賞賞状。
B21(pct200_046)
メダルの表、ノーベルの肖像。
B22(pct200_047)
メダルの裏、スキエンチア(Science=科学)がナツーラ(Nature=自然)の女神のベールをめくり見つめる。
B23(pct200_054)
1950年、京都⼤学にて。前列右から坂⽥昌⼀、朝永振⼀郎、湯川秀樹、後列右端、南部陽⼀郎、左から⼆⼈⽬、内山龍雄。
B24(pct200_055)
1950年、⼤阪⼤学にて。 前列右から⼆⼈⽬が湯川秀樹。
B25(pct200_058)
1950年8⽉、箱根にて、仁科芳雄と(毎⽇新聞社撮影)。
B26(pct200_065)
1952年(昭和27年)12⽉、45歳。マルシャックと。第3回ロチェスター会議にて。
B27(pct200_067)
1953年(昭和28年)7⽉、ドイツ・リンダウにて。 ノーベル賞受賞者の講演会に出席した⼈々。左よりディラック(英)、ベルナドッテ伯(スウェーデン)、パウエル(英)、ラウエ(独)、 へベシー(スウェーデン)、ハーン(独)、湯川秀樹。
B28(pct200_068)
同じくリンダウにて、左より二人目がオイラー(スウェーデン)、三人目ブーテナント(独)。
B29(pct200_070)
同じくリンダウにて、ディラックと。 ディラックは寡黙でひとりで仕事をするタイプであり、このように誰かと写真に写るというのは珍しいことだったという。
B30(pct200_071)
同じくリンダウにて。
B31(pct200_073)
スミ夫人と。
B32(pct200_093)
湯川秀樹は京都の街と文化をこよなく愛した。ウェンツェル夫妻と。銀閣寺にて。