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大阪大学・湯川秀樹ゆかりの人々

素粒子物理学の元祖から南部陽一郎へ

 

南部陽一郎

(1921 – 2015, 2008年12月ノーベル物理学賞受賞)

南部は2009年5月13日大阪大学理学研究科で行なったノーベル物理学賞受賞記念講演「私が歩んできた道」で語っている。

「中等学校時代に湯川理論が出て湯川の名前が世界的に有名になった。その時は、それが何であるか全く分からなかったが、大きな刺激を受けた。その影響もあって第一高等学校(現在の東京大学駒場)の時、数学も好きだったが、何かものを作ってみたり、実際のものを対象にすることの方が好きだったので、結局物理学を選んだ。」

「1940年東京帝国大学に入学したものの、東大には素粒子論というものはなかった。幸いにも、近くに朝永さんがいらした文理大や理化学研究所があって、そこに聴講に行って素粒子論を少しずつ学んだ。でも戦争が始まり、早めに大学を追い出され、兵隊にとられた。」

 

後日、南部は大阪大学でよく述べていた。「理論的な方で湯川さんが初めて中間子という新しい粒子の存在を予言した。実験の方ではそういうものを作るための高いエネルギーを作り出せる加速器をローレンス(Lawrence)が発明した。湯川とローレンスの二人が素粒子物理学の元祖であると私は思う。」

 

南部と大阪大学の繋がりは第2次世界大戦末期に始まる。戦時繰上卒業の後、陸軍に徴兵された南部は宝塚にあったレーダー研究施設に配属され、そこで顧問として従事していた大阪帝国大学の伏見康治、内山龍雄、八木秀次、岡部金治郎等と近づきになる。智恵子夫人とも出会い結婚。戦後3年間は東京大学に住み込み、木庭二郎ら朝永理論のグループに入り込む。1949年に大阪市立大学の助教授、翌年教授に就任し、1952年にプリンストン高等研究所、1954年よりシカゴ大学のメンバーとなる。

 

南部はアメリカ東海岸、西海岸よりも中西部に位置するシカゴ大学を自らの地としてこよなく愛した。超伝導理論を萌芽に素粒子物理学における対称性の自発的破れの理論を提唱し、宇宙の物質を構成する陽子や中性子の質量の生成機構を解明、クォークのカラー(色)自由度の発見、強い相互作用の基礎理論であるSU(3)カラーゲージ理論の提唱、素粒子がひもであるとする弦理論の定式など、その後の素粒子物理学の潮流を道づける数々の理論を生みだした。南部理論はいつも時代の10年先を行くものであった。

 

1990年以降、南部は大阪大学に招へい教授としてしばしば滞在することになる。2000年代、豊中市に自宅を建て、毎年3ヶ月ほど大阪大学で研究に従事する。2008年12月、ノーベル物理学賞を受賞。翌年の記念講演「私が歩んできた道」の中で南部は「物理というものは楽しいものであることを忘れてはいけない」「人間としても、仕事の上でも、何か個性を持ってやる、その心がけが大事です」と力説した。

 

シカゴから豊中に移住し、2011年には大阪大学特別栄誉教授に就任、また豊中市名誉市民になり地域の教育活動にも尽力した。晩年透析を受けつつも、2013年12月17日大阪大学で開催された国際シンポジウムで「A New Look at Fluid Dynamics」の講演をした。生涯、研究を喜び極め続けた。

文責: 細谷 裕(大阪大学)

 

2009年5月13日大阪大学理学研究科

ノーベル物理学賞受賞記念講演「私が歩んできた道」にて

 

 

前列左から2番目が湯川秀樹、3番目が朝永振一郎、右端が坂田昌一。

後列右端が南部陽一郎、左から2番目が内山龍雄。

写真提供: 南部陽一郎

 

 

兵庫陶芸美術館(篠山)にて 2009年5月

写真: 細谷 裕

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