YUKAWA MINDTopics

湯川秀樹の物理学

湯川の時代の物理学と中間子論(6)〜湯川理論のその後〜

湯川理論の波及

現在でこそ、その正しさが確立している湯川の中間子論ですが、発表した直後には厳しい批判に晒されたようです。特に問題だったのは、湯川理論が正しいとすれば「100MeVくらいの質量を持った中間子」が存在するはずですが、1930年代にはそのような粒子は発見されていなかったことでした。このため、湯川の提案は自然界に存在しない仮想的な粒子を相互作用の説明のためだけに都合よく持ち込んだ不整合な理論なのだと批判されたようで、こればかりは中間子が発見されないことには反論しようがありません。

しかし、湯川はこれらの批判にもめげることなく、大阪帝国大学の地で自らの提案に対する考察を深めていきます。最初の論文以降も、同僚の坂田昌一らと共に、中間子がなぜ観測されないのか、観測するにはどのような実験をすれば良いのかといった考察を行い中間子論を精力的に発展させていきました。後に、湯川自身がこの大阪帝国大学での研究生活を以下のように書き残しています。

「ふりかえってみると、一九三四年の秋に核力の理論の帰結としての中間子の存在に思い至った当時の私の心は不思議なほど自信に満ちていた。

(中略)

持続的に、そしてやや異常なまでに、一つの問題に思考力を集中させている過程の中で思いあたったことの一つが、自明であるように見えだす。だから、そこに自信が湧いてくる。それをさらに推進させようとする意欲も出てくる。」

余談ですが、湯川は大阪帝国大学に教員として着任した際には博士号を持っていませんでした。湯川が博士号を取得するのは中間子論の提案から四年後の1938年のことです。この年に、中間子論を含むそれまでの研究成果をまとめた博士論文を大阪帝国大学に提出し、博士号を授与されました。この湯川の博士論文を含め、これまでに大阪帝国大学と大阪大学に提出された博士論文は、全て大阪大学の総合図書館に保管されています。湯川の博士論文も、1938年に提出されたときの姿そのままで、他の博士論文と一緒に現在も総合図書館の書庫に眠っているのです。

本ページでは、湯川の博士論文を、湯川湯川の博士論文のページで公開していますので、興味のある方はご覧下さい。

湯川秀樹の博士論文(大阪大学中央図書館所蔵)

湯川が切り開いた伝統

当初厳しい批判を受けた湯川の中間子論ですが、次第に物理学界に受け入れられていきます。そして1947年、湯川の予言から10数年を経て、宇宙線の崩壊の中に湯川が予言した中間子がついに発見され、湯川理論の正しさが実証されることとなります。湯川がノーベル物理学賞を受賞するのは、その2年後の1949年です。中間子の発見からノーベル賞に至る早さからも、中間子論がいかに衝撃的な理論だったかが感じ取れます。

なお、1949年の発見以降、1960年代にかけて中間子の仲間といえる新粒子が続々と発見されていきます。湯川が中間子論を提案した時代にはたった一種類の粒子を予言するだけでも厳しい批判を受けたのに、それが氷山の一角に過ぎなかったことが物理学の進展によって暴かれるのです。このような自然が持つ多様性は、分かってしまえば当たり前ですが、その片鱗すら見えない時代に、理論的な考察を進めることでその存在を予言するというのは勇気のいることであり、また同時に理論物理学の醍醐味ともいえます。理論的な考察によって未知の物理現象に挑むという理論物理学の研究姿勢は、湯川の先駆的な研究によって我が国の伝統として深く根差しました。

1960年代以降も、ミクロの世界の探索は歩みを止めることなく進展を進めます。1970年代には、陽子、中性子や中間子が、さらにミクロな素粒子「クォーク」の複合体であることが確立します。この時期の素粒子物理の発展では、南部陽一郎をはじめとする数多くの日本人物理学者が重要な貢献をしましたが、これらの業績も湯川が作った伝統を引き継いだものと言えます。

また、湯川の中間子論は原子核の性質を詳細に理解する道筋を開いたという点でも画期的でした。原子核の内部構造の研究や、核分裂・核反応などの研究は現在も大阪大学に引き継がれて活発に行われています。

このように、湯川の中間子論が切り開いた”Yukawa Mind”は、大阪大学、そして我が国に大きな影響を与え、今もなお、伝統が引き継がれているのです。

(文責:北沢正清)

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