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大阪大学大学院理学研究科 教員インタビュー

理論物理研究で日々感じる湯川の影響

大阪大学大学院理学研究科
兼村晋哉(大阪大学素粒子論研究室教授・湯川記念室委員長)

 

 

Q:学生時代に抱いた湯川秀樹に対するイメージは?

小学校の頃に読んだ少年向けの伝記などで湯川秀樹のことは少し知っていましたが、高校1年の時、湯川秀樹が書いた「自己発見」というエッセーを読んで強烈なインパクトを受けました。それは理論物理学に対する私のイメージにネガティブに作用しました。内容は、湯川秀樹が子供の時の夏休みの臨海学校で、ある特殊な体験をしたことで、自分は人に好かれない孤独な人間なのだと自己発見をしたこと、この体験がその後、人と関わらなくて済む仕事、自分の世界に浸っていれば良い仕事として、自分が他の学問でなく理論物理学を選ぶ一因なったといういきさつを記した、やや陰気な内容の回想録でした。これを読んで、それまでいろんな本を見て膨らんでいた私の理論物理に対するイメージが、その時は若干損なわれたような気がしました。でも実のところ現代の理論物理の研究の情景には他者とのディスカッションやディベーションが日常的であり、湯川のエッセーで語られていたような感じでは全くないことを知ったのは、大学院生になってからですね。また、湯川先生ご自身も実際は他の研究者と日々情熱的に議論を重ねて素粒子論の研究に取り組んでいらっしゃったことも、今ではよくわかっています。

Q:湯川秀樹と湯川記念室についての思い出はありますか?

大学院では阪大の素粒子論研究室に属しました。そこで大阪帝国大学時代の湯川先生の影響が色濃く残っていることや、湯川記念室の存在を知りました。湯川先生は阪大在職時に日本初のノーベル賞の研究成果をあげられ、その研究で阪大から理学博士を受けたことも語り継がれていました。湯川記念室については、2000年頃までは理学部の東側に隣接していた原子核研究施設の建物に赤絨毯で格調のある湯川記念室の談話室があって、そこで素粒子論研究室の定例セミナーが行われていました。南部陽一郎さんのセミナーも初めてそこで聞きました。修士の学生の時には当時の素粒子論研究室教授だった吉川圭二さんの群論ゼミや、いろいろな自主ゼミもそこでやりました。私にとってとても思い出の深い場所だったのですが、この建物は老朽化で数年前に取り壊されました。ちなみに学生時代、私はこの建物からすぐの高速道路を陸橋で渡った所にあるお寺の境内に下宿していたので、セミナーの10分前に起きても間に合っていました(笑)。

Q:同じ理論物理学の研究者として湯川秀樹の凄さはどこにあると思いますか?

私は結構長い間、電弱対称性の自発的破れによる素粒子の質量生成機構(ヒッグス粒子の物理)から標準理論を超える新物理に迫る理論的な研究をしています。仮説を立てて物理モデルを構築し、標準理論で説明されない諸現象を説明することを目指します。仮説として未知の粒子を導入することもよくありますが、これは湯川秀樹先生が当時未解明だった核力を説明するために中間子の存在を予言したプロセスに似ています。元祖は湯川先生です。湯川先生は、当時未知であった核力はパイ中間子という粒子によって生じると考え、その質量はこれこれだと予言しました。後に実験で本当に中間子が発見されて湯川先生の仮説の正しさが証明されたんですね。当時は新しい粒子という仮説を立てることが、今ほど一般的でなく、発表には相当な勇気が必要だったはずです。中間子論はもちろん偉大なのですが、湯川先生の偉大さはこのような革新的な理論を恐れず発表した勇気にもあると思いますね。

 

Q:湯川秀樹は現代の素粒子論にどのように関係していますか?

核力の理論は、その後より根本的な素粒子であるクォークとその力学である量子色力学によって理解されるようになり、素粒子標準理論が完成しました。湯川の中間子論自体はこのように書き換えられたのですが、素粒子に働く力は粒子が媒介するという考え方は、現代の最先端の物理学でも脈々と継がれています。上でも少し述べたように、何か新現象を説明するのに仮説的な粒子を考えることに対して今の研究者は抵抗感があまりありませんが、これも湯川先生の大きな影響でしょう。それから、素粒子物理学ではヒッグス粒子とクォークやレプトンの間に働く力の強さのことを湯川カップリングと呼びます。Yukawa Couplingという語は、現代の素粒子物理学では最も多く使われている日本人由来の物理用語かもしれません。ちなみに私がこれまでに書いた論文のうち、論文の題目にYukawa Couplingが含まれているものが8本もありました。湯川先生の存在をいつも身近に感じています。

 

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