湯川の時代の物理学と中間子論(4) 量子力学
量子力学 いよいよ中間子論の説明、といきたいところですが、その前に、ミクロの世界を支配する物理法則「量子力学」に触れておく必要があります。 前章で紹介したように、1860年代のマックスウェルの電磁気学理論の完成により、光は「電磁波」と呼ばれる電磁場の波であることが確立します。また、この当時から光は屈折や回折といった波に特有の現象を持つことが知られていたため、光が波であるという理解は自然に受け入れられました。 しかし、1900年頃から、波であるはずの光があたかも粒のような性質を持つという実験結果が続々と報告されはじめ、物理学の根幹がゆらぎ始めます。たとえば、プランクは1900年に、電磁場のエネルギーが「とびとびの値」しか取らないことを仮定して黒体輻射と呼ばれる現象を説明しました。また、1905年にはアインシュタインが、同様な仮定をすると光電効果と呼ばれる現象がうまく説明できることを示します。 このような「波と粒子の二重性」をうまく説明するのが量子力学です。量子力学では、物質の構成要素はあまねく波であり、同時に粒子でもあります。こう言うと奇妙に聞こえますが、1925年にハイゼンベルクとシュレーディンガーの手によって完成した量子力学では、波と粒子の二重性が方程式に基づいて数学的に記述されます。 量子力学によれば、波が粒子であるだけでなく、それまで粒子だと思われていた電子や陽子なども波としての性質を持ちます。1929年には、電子の波動性が実験的に検証され、量子力学は物理学の基礎理論としての地位を確固たるものにします。なお、粒としての電磁波のことを「光子」と呼びます。そして、光子は質量を持たない粒子であることが知られています。 量子力学の確立とほぼ時を同じくする1926年に、湯川は京都帝国大学理学部に入学し、物理学を志すことになります。海の向こうではミクロの世界の物理学が急速に発展していたこの時期ですが、当時はインターネットもなく物流も不便だったので、日本にはこれら最新の情報はほとんど入ってこなかったことでしょう。しかし、大学時代から大学院時代の湯川は、同級生の朝永振一郎らと協力しながら独学に近い形で物理学の最先端の情報を入手し、見識を広めていたようです。わずかな資料で断片的にしか入手できない情報に、当時の湯川はどのように刺激され、どのようにミクロの世界の深淵へと導かれていったのでしょう。 |
(文責:北沢正清)