蘇る若き湯川
大阪帝国大学時代の湯川博士の膨大な量の史料を調べて
凄く驚きました。阪大時代の湯川は凄まじい、今までの認識、イメージが覆されました。実験や観測事実に向かい合い謎を解く、独自の理論を生み出すために切磋琢磨、仲間と勉強し研究する。偉大な研究者として尊敬するとともに、実は我々と同じ部類の研究者なんだと親近感を持つようになりました。
Q: 「湯川秀樹」との出会いはいつ? 小学生のとき読んだ「日本偉人物語」の1冊で、日本で最初のノーベル賞をもらった人として覚えている。もう少し知るようになったのは中学生になって物理を習ったとき。その時初めて湯川さんは中間子という新粒子を予言した大物理学者であると学んだ。もちろん、それがどんな理論なのかは全くわかっていなかった。でも、教科書に載っていた湯川さんの写真、その写真の湯川さんの目がまっすぐ真理を見つめるように輝いていたのが印象に残っている。心を打たれた。 もっと知るようになったのは、大学、大学院に入って物理を勉強し始めてから。大学でパイ中間子というのは出てきたけれど、私が大学院生の時は素粒子の基本粒子はクォークや電子で、どうもゲージ理論で弱い力や強い力の仕組みが理解できそうだ、という時代だった。つまり、中間子論では不十分でゲージ理論こそ真理を解く鍵だと思っていた。正直のところ、中間子論は有効理論で未来の理論ではないと思いこんでいた。 |
Q: それで、どうなったのですか。 学位をとってシカゴ大学に就職し、南部先生とよく議論するようになりました。南部先生の見方は違った。我々物理学者は自然の謎を解き明かすために背後にある理論を探り当て、実験観測で検証する。特に理論屋、素粒子理論の場合、真の理論を突き止めるに際し、二つの考え方のタイプあるという。南部先生は、ディラック(Dirac)モードと湯川モードの間で揺れると言われる。自然科学はいつも進歩する。その時どきのフロンティアは、何か新しいものをつくりだす。湯川さんの時代では、原子核の中の陽子や中性子の間に働く力を説明するのに新しい粒子の存在を想定するというこの発想自体がそれまであり得なかったものだった。この考え方の転換、飛躍こそが湯川を湯川たらしめ、他の研究者には全くなし得なかったことです。そして、この思考の原風景、原点が南部先生の中にも脈々と生きていると感じました。 |
Q: それは、今回の湯川史料とも関係するんですか。 そうだと思います。その湯川史料について、まず一言。 今回、阪大で公開する大阪帝国大学時代の史料は、京都大学で保存、管理されているものの一部です。湯川さんは、非常に几帳面な人で、大阪帝国大学時代、自分で書いた講演原稿、論文原稿のみならず、計算ノートや種々の学会や教室談話会のプログラム、もらった手紙、等々、すべて封筒等にまとめて保存しました。それらが、京都大学で発見され、保存されているわけです。湯川家でもその他の史料や写真などが見つかり、30年以上かけて小沼先生を中心とする京都大学のメンバー、関係者が整理し、アーカイブとして整備されています。我々は、これに対し深く感謝し敬意を表したいです。
特に、大阪帝国大学時代の史料は驚きでした。私が受けた衝撃は、まさに 「蘇る若き湯川」 でした。毎日、切磋琢磨、勉強に次ぐ勉強、仲間と議論を戦わせ、自然現象の理解に立ち向かう。すべてが新しく、物理学科の人たちにも量子力学をベースにした物性、統計力学の重要性を解説する。研究の発表、論文の執筆も休みを入れない。数学物理学会大阪支部の例会は大阪大学の講義室で開かれていたが、その1枚もののガリ版プログラムでは、湯川と研究仲間がいつも一人当たり5分から15分ぐらいで講演する。計算ノートには、その日、どんなアイディアで、例えば原子核の崩壊過程(ベータ崩壊など)を説明するか、どんな核力があれば原子核のスペクトルを説明できるかなど、試行錯誤の計算過程が書き殴られている。ふと、時間ができたのか、休息のひと時なのか、あるいは行き詰まったのか、空白部分の落書きも面白い。物理の理論は面白いだけではダメで、最後は、実験観測を説明するものでなければならない、そんな気迫が随所に感じられる。阪大の物理には菊池正士さんがいたのが大きな影響を及ぼしていたのは間違いない。 |
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Q: 「蘇る若き湯川」についてもう少し。 湯川さんの研究姿勢が凄い。ある意味、普通にとことん正常なんです。まず勉強。だんだん湯川さんに共鳴する人が増えて、一緒に研究するようになる。勉強会を組織、重要と思われる論文(ドイツ語、英語、フランス語などの)を主担当を決めて勉強、取り組むべき課題を整理し、アイディアを出し合って様々な解析、計算をする。うまくいかないことの方が多い。すると次のアイディアをだす。共同研究の時は、講演や論文の原稿も分担する。論文の場合、坂田昌一さんや武谷三男さんは日本語で(素晴らしい)草稿(まとめのような)を書くのですが、湯川さんは達筆の英語で書く。その手直し作業も面白い。 さらに、湯川さんは直接の研究だけでなく、物理の学生や教員のために当時の最先端の量子物理を講義する。その準備ノートもかなり丁寧に用意する。かなりの頻度で、よくここまでやっていたと敬服する。湯川さんには使命感があったに違いない。 しかし、四六時中勉強していたわけではない。午後になると、野球の練習にも励むし、夕方5時ごろには西宮への帰宅の途につく。途中、梅田で買い物をしたり、メリハリのある生活です。 湯川さんは努力家だった。新しい世界を切り拓く、その湯川精神、Yukawa Mind、が漲っていた。だからこそ、多くの若い人が大阪に集まったのだと思う。 |
Q: 湯川博士が博士号を取得したのは大阪帝国大学のときですか。 そうです。世間では勘違いしている人が多いのですが、湯川の最初の論文(有名な1934年11月執筆のノーベル賞の論文)は大阪帝国大学で書かれ、学位(博士)は1938年に大阪帝国大学で取得しました。1939年5月に京都帝国大学に移りました。湯川さんは1933年から1939年5月まで大阪帝国大学のメンバーでした。なぜ、1938年まで学位(博士)を取らなかったのか。1935年から1937年までの間に、主に坂田さんと一緒に10編ほどの論文を書いています。今から思うと、最初の論文だけでも学位(博士)を取るのに十分でしょう。でも、湯川さんは実験的証拠(あるいはそのヒントとなるもの)がない段階では自分として完全には納得していなかったのかもしれません。実際、1936年当時では、湯川理論を認めない物理学者が多くいました。しかし、1936年、アンダーソンが今でいうミュー粒子を宇宙線観測で見つけたことが転機になったのかもしれません。当時、アンダーソンが見つけた粒子が湯川の中間子かもしれないと多くの人々が考えました。湯川自身もその可能性を吟味し、論文を書いています。その論文では、アンダーソンの粒子を湯川の中間子とすることの問題点も指摘しています。でも、新しい粒子が存在することは確立されたわけです。先ほど、南部先生の湯川さんに関する考え方を紹介しましたが、当時は新粒子を導入するという湯川の考え方そのものが革命的であったわけです。アンダーソンの発見までは99%の物理学者は新粒子の導入を不必要、不自然として排除していたのです。アンダーソンの発見により新粒子の導入をもはや恐れることはなくなりました。湯川さんも確固たる自信を持ったに違いありません。この自信と信念のもと、湯川さんは主論文プラス9編の参考論文をまとめて、大阪帝国大学に学位を申請したのだと思います。
Q: そうですか。凄いストーリーですね。 ええ。大阪帝国大学時代の湯川さんは凄いです。これぞ最先端の物理を研究する学者です。阪大には、そんな湯川秀樹が生きていたのです。今回の湯川史料は「蘇る若き湯川」です。 |