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湯川秀樹の物理学

湯川の時代の物理学と中間子論(2) 元素・原子・原子核

元素・原子・原子核:ミクロの世界の登場人物たち

湯川が誕生した1907年の前後10年ほどの期間は、ミクロの世界で新発見が相次ぎ、原子核、そして素粒子の物理学が奇跡的に発展した時代でした。

湯川誕生の10年前、1897年には、J.J.トムソンによって電子が発見されます。これが人類にとって最初の素粒子の発見であり、この実験を機に「粒」としての元素、「原子」の実在が信じられ始めます。さらに、1905年にアインシュタインが発表したブラウン運動の理論の成功により、原子の実在はついに確定的となります。

原子が存在するなら、その内部はどのような構造をしているのでしょう。当時の物理学者達の関心は、急速に原子の内部構造へと移行していきます。たとえば、大阪帝国大学(現・大阪大学)の初代総長を勤めた長岡半太郎は、「土星型原子モデル」を提唱した先進的な物理学者でした。また、同時期にはトムソンによるブドウパンモデルなどの原子モデルも提案されていました。

原子の構造の議論に決着をつけたのは、1911年にラザフォードらによって行われた実験です。ラザフォード達は原子と原子を衝突させる実験を行うことで、原子の中心部には原子よりも遥かに小さな物体があることを発見します。この小さな物体は、「原子核」と命名されました。

原子の大きさはおよそ10-10mですが、原子核の大きさはおよそ10-14m。原子の大きさを東京ドームだとすると、原子核はピンポン玉程度の大きさです。原子ですら我々の常識からすれば恐ろしく小さいのに、更に桁違いに小さいものが、原子の発見の興奮も冷めやらぬうちに見つかってしまったのです。

この時代のミクロの世界の探索は、なおも長足の発展を遂げます。原子核の発見からそう間を置かず、原子核は「陽子」と「中性子」と呼ばれる更に細かい要素の複合体であることが判明します。陽子の発見はラザフォードの実験から6年後、1917年のことです。その後、1932年に中性子が発見され、これにて原子核物理学の役者が揃います。

1932年というと、湯川は大学院生の時代。
翌年には大阪帝国大学(現・大阪大学)に教職を得て研究に没頭し、1935年にはノーベル賞の受賞対象となる中間子論の論文の発表へと至ります。後に詳しく述べますが、中間子論とは、当時構成要素が判明して間もない原子核の内部に関する理論であり、当時の物理学の最先端をいく研究課題です。この時代の湯川が研究に没頭していた様子は本ページの史料から克明に読み取ることができますが、当時の湯川が海外で進む物理学の革新的発展に追従し、思索を深めようとする熱量はすさまじいものがあります。この情熱が、我が国初のノーベル賞へと結実するのです。

当時の大阪大学での研究生活を湯川は、
「ここにいると研究せずにはおられない」
と記録していますが、大阪の地で中間子論に至る湯川は当時、どのように極微の原子核の世界へと思索を巡らせ、充実した日々を過ごしていたのでしょうか。

(文責:北沢正清)

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