湯川記念室について

1935年、当時大阪帝国大学理学部講師だった湯川秀樹博士は、原子核を結合させている力は中間子という未知の素粒子の媒介によって生じる、という趣旨の論文を発表し、この先駆的な業績により1949年度のノーベル賞を授与された。長く語り継がれているように、敗戦後のすさんだ世相の中に飛び込んできたこのニュースは国民的な感激を呼び起こした。この偉業を記念するための行事が各種行われたが、我が大阪大学においても1953年11月1日に湯川記念室が発足した。この記念室は、歴代の大阪大学総長始め、多くの方々のご支援に支えられながらこんにちに至っている。その歴史を簡単に振り返ってみよう。

ノーベル賞を記念する事業のもっとも強力な推進者は、当時の総長今村荒男先生であった。その事業も単なるお祭りに終わらせるのではなく、基礎科学の培養に役立つものであるべきだとの考え方から、一つには湯川奨学金制度を設け、一つには湯川記念室を創設して研究者の便宜をはかろうという案が出てきた。奨学金制度については、湯川博士自身の寄付金、大阪財界の推進によって自然科学研究者に多大な貢献を果たした。記念室の設立に関しては、幸いにして湯川博士の業績に強い感銘を受けた大阪市もまた積極的であり、戦災後の建物不足の時代でありながら、中之島小学校の木造二階建て校舎全体を大阪大学に寄贈された。(この小学校は旧蛋白研究所の建築予定地の一角に建てられていた。)この建物の二階の二部屋を湯川記念室とし、一階を事務局として使用された。正田健次郎総長も、総長室の隣の一部屋を図書室として提供され、もう一部屋には家具を入れて談話室とされた。このような関係各位の熱意によって湯川記念室は発足し、初代運営委員長には伏見康治先生が就任され、運営委員会も設けられた。談話室では物理、数学をはじめとして様々な話題の談話会が開かれ、また毎年33種類の海外学術雑誌が購入されて広く研究者に利用された。

中之島キャンパスが第二室戸台風の被害を受けたのを契機にして、大阪大学の石橋、吹田地区への移転が加速された。石橋地区にはまだ湯川記念室のための建物をあてがうことができなかったので、当時の総長赤堀四郎先生は、原子核研究施設の一室を借用して一時的に湯川記念室を移動させた。しかし原子核研究施設自体が狭隘であり、いつまでも借用することには限界があった。そこで釜洞・若槻総長の時代に図書館の本館が増築された折り、当時の高田図書館長の意向もあって図書館本館の中の一室を借用して湯川記念室が設置された。この時の経緯を記した銅板は記念室に掲げられている。二代目の運営委員長だった内山龍雄先生は、図書館本館に準備されつつあった新湯川記念室の工事現場に湯川秀樹先生を案内された。湯川先生はたいへんに喜ばれたとのことである。記念室の第一回講演を湯川先生にお願いしたのだが、先生がご病気だったためにこれは実現できなかった

新しい湯川記念室は1976年(昭和51年)11月24日に開かれた。湯川記念室は本部に直属し、全学の利用に提供されるのが原則である。その使用目的は、学術的な香りの高い談話会、研究を主体とした少人数でのくつろいだ討論等々の場を提供することであり、大学全体に開放されている。各分野の研究者が活用されることが望まれるが、学生の定期的なゼミナールには使用しないことになっている。使用の際には申し込み用紙に必要事項を記入していただいている。用紙は秘書の重永にご連絡下さればお送りし、開錠その他についても重永がお世話することになっている。

湯川記念室は、湯川博士の専門分野である物理学、あるいは関連する学問分野の成果を広く一般の方々に知って頂く機会を提供することも行っている。毎年11月頃に開催される「湯川記念学術講演会」がそれにあたる。この講演会は1985年(昭和60年)に始められ、2003年(平成15年)までに19回を数えている。老若男女さまざまな方々がこの講演会に来場され、最先端の学問の息吹を感じ取って頂いている。また毎年5月頃開催される大学祭(まちかね祭)では、湯川記念室に湯川博士の写真パネルを展示し、多くの方々にご覧頂いている。湯川博士の偉業を偲び、新しい学問を目指す若者に強い刺激を与えているものと信ずる。これらの行事は、今後もますます発展させていきたいと考えている。